2023年


ーーー3/7−−−  洋食好き


 
私は洋食が好きである。和食や中華やカレーも好きだが、全体的傾向として、バタ臭い食事を好む。その事をはっきりと認識した出来事があった。

 会社員時代、頻繁に海外出張をした時期があった。出張が終わると、旅客機で帰国する。便は、欧米の航空会社のこともあったし、JALの場合もあった。大した問題では無いが、ほとんどの社員はJALに当たると喜んだ。英語に不自由が無い人でも、やはり日本語が通じるスチュワーデス(客室乗務員)が揃っている方が、気が休まるのである。出張帰りの旅においては、ことさらその癒しがはっきりと感じられた。

 機内で食事が出る。航空会社がJALであれば、メニューは和食と洋食があり、どちらかを選ぶことになる。ほとんどの日本人は、和食を頼む。乗り合わせた同僚社員も、ほぼ間違いなく和食を頼んだ。和食と言っても、寿司や蕎麦などが少しずつ盛りつけられた、言わば形だけの簡単なものである。それをいかにも嬉しそうに食べる日本人たちの様子が、印象に残った。

 私は、いつも洋食をリクエストした。メニューは、ステーキとかである。一人だけ別の物を頼むので、違和感を覚えることもあった。しかし私は、洋食に執着した。一人だけナイフとフォークを手に、むしゃむしゃとステーキを食べた。

 あと数時間で日本に帰る。そうすれば、日本食など、好きなものをいくらでも食べられる。何故このシチュエーションで和食を頼むのか。それが私には疑問であった。そして、メニューを比べれば、おそらく洋食の方が値が張る。日本の生活では、そうそう気軽にステーキなどを食べることができなかった時代である。それらの事も考え合わせ、私の判断は揺るぎなかったのである。





ーーー3/14−−−  上がり対策


 
先日、マツタケ関係のシンポジウムで講演をした。有明マツタケ研究会の活動を報告したのである。出席者は20人弱の、小規模な会だった。事前にプレゼンテーション用のソフト「パワーポイント」で原稿を作り、それを用いて発表をした。

 私は、人前で喋ることには少々の自信がある。上がってへどもどすることは、滅多に無い。今回も初めから、喋りの方は問題無かった。しかし、不本意ながら、パソコンのマウスを操作する指が震えていた。やはり緊張していたのである。

 人前で喋る、あるいは何かを実演する、などという場合、「上がり」は付き物である。上がってしまって平常心を失い、実力が発揮できないということもある。素人の音楽サークルの発表会などでは、上がってしまって何もできなくなってしまう人がいたりする。そのうろたえる様は、見ていて気の毒なほどである。上がらないように気を使うほど、上がってしまうから、厄介だ。

 上がらないようにするためには、「自信を持って臨め」などという。しかし相手のあることだから、どのような反応が返って来るかは、やって見なければ分からない。自分では上手く演じられたとしても、そのジャンルに関心が無い観客は、反応がネガティブである。そういう状況に対する不安が、余計な緊張を誘う。

 音楽家がリサイタルをする場合などの心得として、観客の中に熱心に聴いてくれている人を見付け出し、その人のために演奏をするような気持ちで臨めば良い、というのを聞いたことがある。要するに、感心が無い人、無反応な人は無視するということ。そして、熱心に聴いてくれる人に的を絞れば、演奏に集中できるというわけだ。

 こんな経験がある。あるリサイタルへ出掛けた。会場は、私的な施設の大広間。演目はシューベルトの歌曲集「冬の旅」。観客は30〜40人だったか。観客の目の前に、歌手とピアノ伴奏が位置しているという、サロン的な雰囲気のリサイタルだった。独唱者は、その方面では有名な人だったらしい。この長丁場の曲を、休憩なしで一気に歌い上げるのは、国内では珍しいとの事だった。

 私はカミさんと共に、最前列に座った。「冬の旅」は、若い頃からよく聴いた作品なので、懐かしみながら楽しく聴かせて貰った。演奏が終わって会場が拍手に包まれたとき、独唱者が一直線に私の席へ来て、両手を差し出して握手を求め、「ありがとうございました」と言った。私は何がどうしたのか分からなかったが、手を握り返して「素敵な演奏でした。感銘を受けました」と述べた。後で考えると、おそらくその日の私が、ターゲットにされた観客であり、私の反応を励みにして歌ってくれたのだと思った。

 ところで、今の私は、上がり対策として一つの見解を持っている。それは、聴衆を信頼するということである。聴衆は、悪意を持っているはずは無く、あら捜しをするようなことは無い。私が何かミスっても、バカにしたり、見下したりしない。むしろ、愛情をもって見守り、心の中で励ましてくれる。そのように信じて疑わないようにする。そして、そのような人たちのために、誠心誠意をもって演ずれば良いのである。

 もちろん、聴衆の中にはそうでない人もいるだろう。でも、そのようなことは気にせず、自分を愛してくれる人たちを信じて、最善を尽くせば良いのである。





ーーー3/21−−−  スマホとエニアック


 
息子と会って話をするうち、こんな話題になった。息子が「スマホに入っているCPU(データを処理する人工頭脳)は、トランジスタ何個分だと思う?」と聞いてきたのである。その問いの前振りとして「世界最初の電子計算機エニアックは真空管を17000個使っていたそうだけど・・・」と言った。

 CPUにはトランジスタは使われておらず、代わりに集積回路がその役目を担っている。集積回路にはトランジスタと同じ機能の回路が組み込まれているので、その数で初代コンピュータとスマホを比較しようということだ。ちなみに真空管とトランジスタは、仕組みは違うが機能はほぼ同じで、真空管一本がトランジスタ1ヶに対応すると考えて良い。

 エニアックは、1940年代に米国のペンシルバニア大学で開発された。倉庫の中に納めるくらい巨大なコンピュータだったそうである。真空管は、構造上球切れが避けられない。17000本も使っていれば、毎日どこかで球切れが起こる。それを見付けて交換する役目の女性職員がいて、買い物カゴのようなものに真空管を入れて立ち働いていたというエピソードを、昔何かで読んだことがあった。

 私は「スマホはトランジスタ100万個くらいかな」と答えた。それだって大した数だが、息子はニンマリとして「60億個だ」と言った。その後ネットで調べて見たら、諸説あったがおおむね数十億から100億くらいの数値であった。いずれにしろ、感覚的に把握しかねる大きな数である。変な比べ方だが、エニアックの性能を長さで表現して、手を広げたときの親指の先から小指の先までの寸法とすれば、スマホは東京駅から高尾駅までよりもっと長い。

 過去の人間を、タイムマシンで現在に連れてきて、現代文明を見せたらどのような反応を示すだろうか、というのは、私が時々密かに楽しんでいる想像実験である。

 エニアックを開発した学者にスマホを見せたら何と言うだろうか。

 「強い酒を持ってこい。ベロベロに酔って、しばらく意識を無くしたいんだ」と言いそうな気が、私はする。




ーーー3/28−−−  老婆とスマホ


 
東京方面へ行く用事があり、松本駅で特急あずさに乗った。車両に入り、指定を取ってあった座席に座った。二人の老婆が前方から現れて、すぐ後ろの座席に着いた。直後から、「大河ドラマを見てるんだけど、話がよく分からなくてね」、「そりゃあ、まじめに見てないからだよ。気を抜いて見てると分かんないよ」、「そんなことはないよ、真剣に見てるんだけど分からなくなっちゃう」、「あたしなんか、ながらで片手間に見てるから、はなから話について行けてないよ」などと話し出した。

 これは道中にぎやかなことになると、少々苦々しく思った。ところが、しばらくするとシーンと静かになった。年寄りだから(人のことは言えないが・・・)居眠りでもはじめたのかと想像した。

 だいぶ経ってから、私は車両の後方にあるトイレに行った。用が終わり、座席に戻るときにチラッと見たら、例のご婦人たちは、一心不乱の体でスマホをいじっていた。

 なんだ、お婆さんたち、全然ボケて無いじゃないか。